2026 年 08 月 04 日
【参加レポート】世界銀行 G・IFC がエッジ AI に初投資。投資家視点の「主権ある AI」課題と将来性
~ 半導体業界と投資家によるパネルディスカッション。フィジカル AI 時代の鍵を握る「エッジの信頼性」~
こんにちは。サイバートラスト グローバル事業推進本部の岸田です。
7 月 14 日、IFC(国際金融公社/世界銀行グループ)主催のフォーラムに参加してきました。パネルディスカッションのテーマは「AI 時代に求められる半導体産業の変革」。登壇したのは、エッジ AI 推論プロセッサ IP を開発する米 Quadric(クアドリック)社の CEO 兼共同創業者 Veerbhan Kheterpal(ヴィアブハン・ケテルパル)氏と弊社 Chief Business Transformation Officer の眞柄泰利、そして半導体業界や投資家の方々を含む数名のパネリストです。作る側、使う側、そして資金を出す側が同じテーブルに並ぶ構成で、論点の重なり方がふだんの技術会議とはまったく違いました。
サイバートラストは 2020 年 1 月、エッジコンピューティング向け半導体を手がける Quadric 社と、AI 次世代のエッジスーパーコンピューティング環境の提供に向けて提携しました。「令和 7 年版 情報通信白書」(総務省)※によると、世界のエッジコンピューティング市場全体は、AI や 5G の普及に伴い年率 20〜30% の高い水準で急成長しており、国内市場においても、約 11〜13% 台の安定した成長が予測されています。こうした背景のもと、 AI 世代のエッジスーパーコンピューティング環境の提供に向けて両社が提携し、多角的な認証によるデータやデバイス、アプリケーションの真正性確保、暗号化による機密性、電子署名による改ざん検知といった IoT 機器のライフサイクル管理と、膨大な取得データを低消費電力でリアルタイムに演算処理する技術を組み合わせ、産業 IoT、5G、ロボティクス、医療、高度画像処理、自動運転といった先進分野に向けた事業開発を推進しています。ハードウェアから OS、ドライバー、アプリケーションまでの全レイヤーをサポートし、組込み機器からデータセンター内のサーバーまで広く対応できる環境をワンストップで提供することを目標に掲げ、以来、AI 推論プロセッサのセキュリティ技術検討を実施してきました。
いわば「いつも一緒に仕事をしている相手」の話を、投資家という第三者の目線が交じる場で聞くと、普段の打ち合わせでは見えてこない論点が浮かび上がってきます。以下、当日印象に残った四つの論点をレポートします。
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※「令和 7 年版 情報通信白書」(総務省)
イベントの背景――IFC によるシリーズ C 追加クローズ
このフォーラムが開かれた 7 月 14 日、Quadric 社はシリーズ C ラウンドの追加クローズを発表しています。プレスリリースで公表されている内容を整理すると、背景はおおよそ次のとおりです。
Quadric 社プレスリリース(2026 年 7 月 14 日)より
- 調達額:IFC(国際金融公社/世界銀行グループ)がリード投資家となり、シリーズ C の調達額は 4,600 万米ドル、累計調達額は 9,000 万米ドルに到達。
- 資金の使途:車載・AI PC・エンタープライズといった既存顧客の支援体制と、ヒューマノイドロボティクス/ウェアラブル/ネットワーキングという次の波に向けた市場開拓に充当。
- 投資家の顔ぶれ:シード期をリードした Pear VC、Uncork Capital、ファーストクローズをリードした BEENEXT が追加出資。Offline Ventures が新規投資家として参加。
- 業績の推移:2026 年 1 月に発表したファーストクローズの前年には、製品売上が 3 倍以上に伸び、黒字化を達成。
- IFC の動向: IFC は新興国のテクノロジー分野に累計 30 億米ドル以上をコミットしており、本件は IFC として AI 半導体への初の投資。
出典:Quadric 社プレスリリースhttps://quadric.ai/press-release/quadric-series-c-second-close-2026
IFC の Chief Investment Officer であるモハメド・エイサ氏は、プレスリリースのなかで、強力な AI がハイパースケーラーの独占領域にとどまっていては新興国のデジタル格差は埋まらない、と述べています。ソフトウェアで柔軟に書き換え可能な設計によって、新興国の中小企業が従量課金のクラウド費用に阻まれることなく、自ら所有するデバイス上で AI を動かせるようになる――この指摘は、私たちが「主権ある AI」と唱えてきた論点と強く共鳴します。フォーラムの議論も、この文脈のうえに置くと理解しやすくなります。
1. 「学習」から「推論」へ――フィジカル AI という言葉が現実味を帯びた瞬間
冒頭、Kheterpal 氏はこれからの AI トレンドを「トレーニング(学習)から推論(インファレンス)へのシフト」と定義しました。とりわけ自動車やロボティクスのように物理的な動作を伴う「フィジカル AI」の領域では、極めて低いレイテンシー(遅延)で瞬時に判断を下す推論機能が不可欠になる、と。
「AI=データセンター」という構図から、チップ自体に AI 機能を組み込むユビキタスな推論環境へ――コンセプト自体は耳馴染みのある話かもしれません。しかし、実際にプロセッサ IP を設計している当事者が「需要はすでにそちらへ移っている」と言い切ると、受け取り方の重みが変わります。同席した投資家のパネリストからの問いも、市場規模の大きさより「いつ量産に乗るのか」という具体的な実装時期に向けられていたのが象徴的でした。
この日の登壇内容は、プレスリリースで Kheterpal 氏が語っている論旨とも一貫していました。「チップの機能セットは出荷の何年も前に固定されるのに、AI モデルは数か月ごとに変わる。だから固定機能型の NPU は登場時点でモデルに遅れており、その差は開くばかりだ」と。対して Quadric 社は自らを「生きているプラットフォーム」と位置づけ、スタックがソフトウェアであるがゆえに、同じチップが出荷後も新しいモデルを動かすことができ、処理性能を高めていけると説明します。氏はこれを、「価値が目減りするシリコン」と「複利的に価値が積み上がる(compounds)シリコン」の違いだと表現していました。

Quadric社 CEO兼共同創業者 Veerbhan Kheterpal 氏
2. 「AI の信頼性はエッジで崩れる」――眞柄からの問題提起
続いて当社の眞柄が投げかけたのは、「信頼(Trust)」に関するテーマでした。AI がエッジデバイスへ浸透していくなかで最も重要になるのは信頼性であり、とくに重要インフラ領域では「AI が動く」だけでは不十分であると訴えました。信頼性の確保に必要な条件として、次の 2 点が挙げられました。
- 意思決定のスピード:技術力はあるものの、意思決定の遅さが機会損失につながっている。
- 技術のスピンアウト:大手企業の内部に眠る「隠れた技術」をスタートアップとして社外に出し、成長を加速させる仕組みが必要。
「AI 時代においては、信頼を物理的な証明(証明書やハードウェア ID)として実装しなければ、Critical Infrastructure(重要インフラ)は AI を活用できない」という一言が、その後の議論の軸になりました。
「AI の信頼性はエッジで崩れます。信頼のためには『物理的にデジタルキーを埋め込む』ことが必須です。未知のデバイスからの出力は信用できません。また、サプライチェーンの透明性も不可欠です。チップの中身が分からない『ブラックボックス』は重要インフラでは受け入れられません。デバイスに『出生証明書』を持たせ、改ざんを許さないデータパイプラインを構築する必要があります」
デバイスに「出生証明書」を持たせる。サイバートラスト社内では日常的に使っている表現ですが、半導体業界の方と投資家の方が並ぶ場で語られたときの反応を見て、第三者が証明する公的な書類という比喩によって概念が直感的に伝わる有効性を改めて実感しました。技術的な正確さよりも、「誰が作ったか分からないものを重要インフラに入れられるはずがない」という常識に接続できるかどうかが、この議論の勝負どころなのだと思います。

サイバートラスト Chief Business Transformation Officer 眞柄泰利
3. 日本の半導体産業――強みと、少し耳の痛い指摘
話題が日本の半導体産業の再興に話が及ぶと、議論は一段と熱を帯びました。世界に誇る「材料・製造装置」と「高度なエンジニアリング文化」が健在であるという評価は、半導体業界側・投資家側の双方のパネリストで共通していました。
一方で、課題として挙がったのは次の二点です。
- 意思決定のスピード:技術力はあるものの、意思決定の遅さが機会損失につながっている。
- 技術のスピンアウト:大手企業の内部に眠る「隠れた技術」をスタートアップとして社外に出し、成長を加速させる仕組みが必要。
海外のスタートアップ経営者から見た日本、という視点だからこそ率直に提示された指摘でしたが、日本側の登壇者からも異論は出ず、むしろ実例を交えて補強されていく展開で、聞いていて耳が痛い部分もありました。パネル全体の総括としては、「高い信頼性という日本の強みを活かしつつ、いかにスタートアップ的なスピード感で技術を社会実装できるか」が今後の鍵を握る、ということで一致しました。
4. 「AI はバブルではないのか?」
セッションの終盤に、投資家側のパネリストから「AI はバブルではないのか?」という直球の問いが投げかけられました。Kheterpal 氏はこれを明確に否定しました。ドットコム・バブル期のような「収益が見えないなかで期待感だけで価値だけが高騰した」状況とは異なり、現在の AI 分野は「圧倒的な需要が供給を上回っているリアルな需要」に基づいています。AI 導入の動きは一過性の流行ではなく「持続的な産業変革」だという見解を示しました。
この主張には、同日に発表されたプレスリリースが数字の裏づけを与えています。ファーストクローズ前年の製品売上は 3 倍以上に伸び、すでに黒字化を達成しています。投資家による見込みの評価額ではなく、顧客が実際に支払った売上です。投資家向けのイベントだけに、最も緊張感が走った質疑応答でしたが、返された回答は極めて冷静で説得力のあるものでした
5. 【補足】セッション後に伺った、Quadric 社の技術的な強み
セッションの前後で、Kheterpal 氏と共同創業者兼 CPO の Daniel Firu(ダニエル・フィル)氏から、製品面についても少しお話を伺うことができました。パネルの内容を理解する補足として、あわせて共有しておきます。
Firu 氏が強調した最大の差別化要因は、プログラマビリティと柔軟性でした。「AI は常に変化しており、先月あったモデルが、今では別の新しいモデルになっています」――だからこそ、あらゆるモデルをコンパイルできるソフトウェア駆動型の推論プロセッサとして「Chimera GPNPU」を開発した、と言います。専用コンパイラを提供することで顧客自身で新しいモデルを移植でき、結果として搭載チップは 5 年から 10 年という長期間、現場で運用し続けることができるようになります。
新しいモデルが公開されるたびに NPU の見直しを迫られるのが従来の課題でしたが、Quadric 社の場合は、Chimera コアへモデルを移植のみで最新モデルに対応でき、シリコンの変更は不要です。この「継続的なモデル移植を可能にする仕組み」そのものが製品の本質である、という整理です。Chimera GPNPU はマルチチップレット構成で 1TOPS から 3,200TOPS 超までスケールし、従来の CNN からオンデバイス LLM 推論、さらに VLA(Vision-Language-Action)系のワールドモデルまでを幅広くカバーしています。
また、 NVIDIA の「CUDA」との関係についても質問しました。Firu 氏の回答は「厳密に同じではないが、高いレベルで見ればイエス。学習用ではなく推論用の CUDA であれば、当社のプラットフォームに移植可能です」との回答を得ました。Kheterpal 氏は、一度移植すれば数百万台規模のデバイス生産に投入できるとし、車載領域については「自動車メーカーが自社の車両で AI を所有できるようになる」、そして高価な AI プラットフォームと比べて大衆車にも搭載できるコストパフォーマンスを提供できると語りました。
日本での実績としては、デンソーとの車載用 AI 半導体の共同開発(6 年以上にわたる取り組み)、シリーズ B での NSITEXE(エヌエスアイテクス)による出資リード、京セラドキュメントソリューションズによる IP コア採用が挙げられました。

左:共同創業者兼 CPO Daniel Firu 氏/右:Quadric 社 CEO 兼共同創業者 Veerbhan Kheterpal 氏
おわりに――性能競争の次に来るもの
今回のセッションを通じて改めて感じたのは、次のフェーズの AI 競争の軸は「モデルの賢さ(性能競争)」から「その AI をどれだけ信頼して業務や社会基盤に組み込めるか(Trustworthy AI/信頼性とセキュリティの競争)」へと移行しつつある点です。長年、産業機器や製造業において品質を追求してきた日本の半導体・エレクトロニクス業界にとって、この「信頼」という付加価値は、グローバル市場で差別化を図るための最大の武器になるはずです。
IFC という国際開発金融機関がエッジ AI 半導体分野に初めて投資し、その理由として「ハイパースケーラーに依存しない自律的な市場の創出」を挙げたという事実は、エッジで動く AI に信頼を実装するという私たちの取り組みが、日本の重要インフラにとどまらないグローバルな要請であることを示しているように思います。
サイバートラストは、2020 年の提携以来、Quadric 社と AI 推論プロセッサのセキュリティ技術検討を実施してきました。提携時に掲げたのは、ハードウェアから OS、ドライバー、アプリケーションまでの全レイヤーをサポートし、組込み機器からデータセンター内のサーバーまで対応する AI 次世代のコンピューティング環境をワンストップで提供することを目指しています。今後は「AI 時代の重要インフラサプライチェーン向けトラスト基盤構想」の一環として、「Chimera GPNPU」による「エッジ・AI コンピュータ」もサポートしていく方針です。「クラウド主導の AI」から「エッジ分散型の AI」へ移ろうとしているいま、日本が次世代 AI コンピューティングの主導権を握るためにも、セキュリティを支えるトラスト基盤が必要不可欠となります。
Kheterpal 氏は最後にこう締めくくりました。「今は非常にユニークでエキサイティングなタイミングです。この新しい AI コンピューティング・スタックで市場シェアを構築するチャンスです」。あと 10 年で「AI コンピュータ」が大きな市場シェアを持つようになる――その入口に立っている実感が、会場を出たあとも残りました。






